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ESSAIS

世界史の中の日本の将来

24 avril 2010

作家。1946年、長野県生まれ。87年『ミカドの肖像』で第18回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。『日本国の研究』で96年度文藝春秋読者賞受賞。以降、特殊法人等の廃止・民営化に取り組み、2002年6月末、小泉首相より道路関係四公団民営化推進委員会委員に任命される。その戦いを描いた『道路の権力』(文春文庫)に続き『道路の決着』(文春文庫)が刊行された。06年10月、東京工業大学特任教授、07年6月、東京都副知事に任命される。






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中国やインドなど人口爆発が経済の高度成長と結びついている主要途上経済国と違い、ヨーロッパと日本は少子高齢化社会などの課題を抱えながらも蓄積した富をインフラの整備というかたちで、かなり充分な程度に分配し終えた成熟社会である。もはやあわてて上下水道や地下鉄や高速道路へ投資する必要もないのだから。

新興国の経済成長は右肩上がりで、成熟社会の経済成長はそれに較べると相対的に低くならざるを得ない。途上国の未来を予想することはそれほどむずかしいことではない。先進国が成長の過程で起こしてきたさまざまな問題(大気汚染や工場廃水など)のハードルは事前に示されているからである。

ところが成熟社会の未来は、まだ誰も真っ白なキャンパスに明快なデッサンを施したとはいえない状態である。少子高齢化の時代をどう乗り切るのか、そのなかでの経済成長は、あのリーマンショックの失敗を繰り返さずにどう達成するのか、きわめて見えにくいのだ。

いまはロシアが加わってG8(先進国サミット)となりは、さらには主要途上経済国を繰り込んでG20になりかけているが、一九七〇年代後半からスタートしたG7は、経済成長と貿易における共通の課題とルールを話し合うために開かれていた。アメリカ、イギリス、フランス、ドイツ、イタリア、カナダ、日本、この七つの先進国で話し合えば、軍事以外のほとんどすべては解決したのである。日本はアジアにありながらEUの一員のような、イギリスがヨーロッパ大陸とすぐ隣で向き合っているように反対の東方からすぐ隣で向き合っているにすぎない、そんな錯覚、いや経済上の現実があったのだった。冷戦終焉まで巨大なソビエト・ロシア帝国は軍事的には脅威であっても経済的にはまるで存在していなかったのである。

日本とヨーロッパはなぜ同じ世界を共有していたのか。答えは単純である。日本が近代化のモデルをヨーロッパに求めた。そして非ヨーロッパ以外で初めて実際に近代化を実現したからだ。

日本の近代化は、ヨーロッパの近代社会をモデルとして、十九世紀の後半から開始された。司法、立法、行政のモデルを借りてきた。株式会社のつくり方も借りてきた。あの伝統のミカドでさえ、近代国家においてはドイツやイギリスをモデルとした。軍隊はフランスやドイツをモデルとした。

一八九四年の日清戦争も、一九〇四~五年の日露戦争も近代化のプロセスのなかで、国民国家を維持するために不可避であった。帝国主義もまた欧米をモデルとした。

 その過程で日本は、モデルとしたヨーロッパに対して近代化の過程で三つの別の特徴をもつにいたった。

まず第一は、先行の国家モデルをコピーするために優秀な官僚が必要だったこと。急いでアイデアを考えるよりも、いま存在する司法、立法、行政のモデルを翻案して日本風に置き換えて吸収するために必要な、上意下達がスムーズな組織が効率的であった。

したがって初期の官僚には使命感があり、軍隊もまた官僚機構であるから、短期間に近代国家の骨格がつくられ、軍事的にも強国になった。日露戦争をはじめるにあたって戦争ボンドを売ろうとしたが、結局、勝敗の賭け率がかけはなれていてロシアの国債は引く手あまただが誰も日本の国債を買おうとしなかった。そのころ欧米の新聞には、巨大な白クマが待ちかまえている岩の上から張られた一本のロープの上に、扇子をかざして綱渡りで渡ろうとする小さなサムライが描かれていた。

だが日本の戦争ボンドを買う、つまりリスクを取ることで巨額の富を得ようとする投資家はつねに存在する。結局、あのリーマンブラザーズが日本の戦争ボンドを購入して大儲けした。さすがリーマンブラザーズ !? である。

こうして日本は最初のハードルを、官僚機構を整備することで乗り越えた。

では近代化における第二の別の特徴とはなにか。軽装備で第二次世界大戦に加わり、アメリカ帝国に宣戦布告してしまったことである。

日本は日露戦争に勝利した。そのほぼ十年後、一九一四~一八年に第一次世界大戦が勃発した。ヨーロッパでは当然、刻み込まれている記憶である。なにしろこの戦争で六千五百万人の兵士が動員され、死者じつに一千万人、負傷者二千万人、捕虜六百五十万人を数えた。飛行機や戦車など大量殺戮用の新兵器が初めて導入された。機関銃、手榴弾、毒ガスが塹壕の兵士を襲った。

日本は中国大陸の半島、青島(チンタオ)にいるわずかなドイツ兵士を打ち破ったぐらいで、第一次大戦の実態をまったく知らないで過ごした。その後、日露戦争の兵備のまま中国大陸へ侵攻していった。一九四一年、日本はアメリカに宣戦布告してパールハーバーを奇襲する。海軍は巨大な最新鋭の戦艦と戦闘能力の高い戦闘機を保有していたが、陸軍の兵士は日露戦争のときに開発された連発式ではない銃剣で武装していたのである。

一九〇五年と一九四一年の間、日本はいったいなにをしていたか、である。第一次大戦という世界の大きな曲がり角(その結果、ヒトラーとナチスドイツが現れるのだが)を理解することができなかったのはなぜか。官僚機構の使命は十九世紀の近代化のモデルをコピーすることだった。コピーを終えた官僚機構は、その後に起きた新しい悲惨な事態についてインプットする必要がなかったのだ。ソビエト共産党のように肥大化した官僚機構はただ自己増殖するのみで、情報を独占していたので政治家や国民が判断する余地は残されていなかったのである。ヒトラーが議会で選ばれたことと逆に、ほとんど誰も何も選んでいないうちにずるずると破滅へと傾斜して行った。

第三の特徴。江戸時代という戦争も内乱もなにひとつ起きない平和な時代が十七世紀の初頭から十九世紀の後半まで、じつに二百七十年もつづいた。世界史的には希有な出来事である。その結果、日本近海の荒海に囲まれた日本には国防という概念や国境という概念がほとんど浸透していなかった。

日露戦争後の日本人が、悲惨な第一次大戦についての情報について疎かったのは、二百七十年の閉じた時代の記憶が深層意識を支配していたためでもあった。

だが江戸を首都とする江戸時代は、京都からミカドを連れてきて東京と改名するまで二百七十年間もつづいた結果、人びとは豊かで落ち着いて洗練された暮らしをつくり、孤立した成熟国家を完成させていた。

百年つづいた内戦が治まり、治安が回復すると高度経済成長がはじまり、一千二百万人だった人口は一六〇〇年から一七〇〇年の百年の間に三千万人に増えた。

その後、ほぼゼロ成長で人口増加も止まり、少子高齢化の時代が百七十年間もつづき、繁栄はつづいた。寺子屋と呼ばれる学校教育の普及により識字率は十八世紀になると世界一だった。河川の堤防など土木工事、火消しと呼ばれる消防、飛脚と呼ばれる郵便、その他、独自の裁判制度や警察制度で治安はきわめてよかった。

聖地メッカにあたる伊勢には毎年、各地から大勢の参拝客、観光客が訪れた。道中では一定間隔で宿場があり旅館も土産屋も市場もあった。大金をもたずにトラベラーチェックにあたる為替が有効だった。十七文字で構成される短詩・俳諧で有名な芭蕉の長旅の記録は有名だし、浮世絵の巨匠北斎は八十七歳で片道二百五十キロの旅を楽しみ、目的地で豪商の天井画を描いた。

両替商と呼ばれる民間による独自の銀行制度もあり、複利計算による融資も行われていた。株式市場の代わりに主食である米相場があり、実際のコメを売買する実物市場とは別に、一年先、二年先など一定の期限をもうけ先行きが高いとみれば買い、安いと売る、帳面上の取引、つまり先物取引も行われていた。金融商品デリバティブスの手法はこの先物取引を複雑な数式に高度化したにすぎない。シカゴの取引所では、日本の江戸時代の先物取引所がルーツであると説明している。

歌舞伎や人形浄瑠璃、ゴッホなど印象派に影響を与えた浮世絵などの絵画や陶磁器など独自の洗練された芸術が生まれた。そして最も重要な緻密・精密な工芸技術が無数の職人を生み出していることだ。

アメリカのペリー提督による黒船艦隊の登場により、二百七十年の平和の時代は終わり日本は世界史の枠組みに組み込まれ、近代化を急ぐことになった。

第二次大戦の敗戦後、冷戦による平和のなかで日本は再び江戸時代のようにひたすら精密技術を磨くことに邁進した。冷戦が終わり、曲がり角になると官僚機構がまたもや思考停止の状態を肥大化させている。だが日本は独自に江戸時代に少子高齢化時代という成熟を経験している。女性の平均年齢八十五歳、男性の平均年齢八十歳、世界一の長寿を達成しているところに、西欧近代以前の成熟の経験が生きているのではないか。

ヨーロッパでもなく、アジアにありながら唯一の成熟国家の日本には、もともと右とか左などという概念がない。冷戦の崩壊も、価値観としては本質的な衝撃ではなかった。伝統の井戸を掘りながら智恵を探し、それを未来の技術と融合させ、世界史の例外が世界史のなかで独自の役割を果たせればよいではないか。

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